エマオに向かう道で

2003-17 4月27日

週 題    エマオに向かう道で    
主 題    弟子たちの心の目は開かれて、イエスの復活を信じた。    ルカ24:13-35
暗 唱 聖 句    それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。    ルカ24:31

 

【単元の流れ】
 イエスの復活が歴史的事実である証拠として、通常、キリスト教会は以下の四つを挙げる。
 第一に、墓が空になっていたこと。これは、先週記したように、最も基本的な歴史的事実である。イエスの復活を認める立場であろうが、否定する立場であろうが、キリスト教に好意的であろうが、批判的な立場であろうが、墓が空であったことは認めないわけにはいかない。墓にイエスの遺体が安置されたままであったなら、その後のいっさいのできごと(今日キリスト教会が存在することまで含めて)は、起きる可能性はまったくないことだからである。
 第二に、イエスの遺体を巻いていた布が、まるで中身がすっぽり蒸発したかのように、そのままの形で、特に頭部を覆っていた布が球状を保ったままでその場に残されていたこと(ヨハネ20:6,7の描写は、弟子たちが墓の中に見た布がそのような状態であったことを記している)。このことは、イエスの復活のさまが、単に死者が一時的に息を吹き返した(それならば、同様のケースはいくらでもある)のではなく、新しい存在としての復活であることを示している。
 第三は、復活なさったイエスが、時と場所を変えて多くの弟子たちに、時には500人以上の人々に同時にそのお姿を示してくださったこと(弟子たちがそう証言している)。
 第四に、弟子たちが、それまでとはまったく別人のような後半生を送ったこと(その結果、今日、全世界にキリスト教会が存在するようになり、また、イエスの復活を記念して日曜日が世界的に礼拝と安息の日となった)。
 「生物学的には、死んだ人間が復活するはずがない」と否定するのではなく、「さまざまな要素を総合すると、聖書の記述(弟子たちの真摯な証言)のように、事実イエスは復活したと認めることが、歴史的に最も蓋然性(単に可能性があるかどうかではなく、それ以上に、起こりうる確立が高いかどうか)の高いことである」と認めた。だからこそ復活なさったイエスは単なる生物(人間)ではなかった。神であられた、と認めるように考え方を進めていくべきである。

【今週のテーマ】
 エマオに向かう弟子二人は、初めのうち、イエスであると気づかなかった。おそらく、イエスの外見がそれまでとは幾分か違っていたのであろう。イエスが二人の心の目を開かれた時、初めて二人は気づいた。

【暗唱聖句の説明】
 「非科学的な時代の人だから復活を信じられた。科学的な現代人には信じられない」のではなく、どんなに証拠を突きつけられても、いつの時代でも、復活など信じがたいことである。最終的には、神ご自身に私たちの心を開いていただく必要がある。

 よみがえられたイエスと11人の弟子との出会いに焦点を絞る他の福音書に比べて、ルカは、無名の弟子たちのイエスとの出会いを詳述する。マタイやヨハネが使徒としての自分自身の実体験を証言するのに対して、異邦人クリスチャンであり、後日、綿密に取材して福音書を記したルカにとっては、使徒たち以外の弟子たちの証言を新たに紹介することに使命を感じたのであろう。

 

1.エマオに向かう二人。ルカ24:13,14
 イエスの復活の日、二人の弟子がエルサレムから少し離れたエマオ(今日では場所は不明)に向かっていた。一人は「クレオパ」と紹介されているが、もう一人がだれであるかはわからない。それがだれであるにしろ、イエスの悲劇的な死を間近に経験した者として、イエスの復活の話には信じがたいものを感じていたであろう。

 

2.イエスと出会う。ルカ24:15-24
 この二人に、イエスが現れてくださった。しかし、「ふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」。
 復活なさったイエスの外見が、それまでとは多少変わっていたという面もあろう(マルコ16:12)。復活とは、単なる精神的なよみがえりや霊魂の不滅ではなく、間違いなく肉体をもつてのよみがえりであり、その肉体は、生前の肉体とは連続性があるが、完全に同じではない。復活後の状態は、「朽ちないもの」「栄光あるもの」「強いもの」「霊魂に属するからだ」であると、パウロは説明している(1コリ15:42以下)。
 復活後のイエスには、何らかの外見上の変化があったのであろう。しかし、理由はそれだけではなく、やはり、一連のできごとから来る落胆や失望が、新しいことが起きる期待を弟子たちの心から奪っていたのであろう。

 

3.目を開かれる。ルカ24:25-35
 イエスは二人に対して、旧約聖書の教えを丁寧に説き明かされた。旧約聖書は当時、「律法(モーセ)と預言書と詩篇(あるいは諸書)」と呼ばれたり、あるいはそのうちの一つか二つを省略して、「律法と預言者」とか「律法」といったふうに呼ばれていた。「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で」という表現は、文字どおりイエスが旧約聖書全体にわたって体系的に教えて下さったことを意味する。
 イエスが二人の弟子と共に食事の席に着き、「パンを取って祝福し、裂いて彼らに渡され」ると、二人の目が開かれ、イエスであるとわかったという記述は、初代教会の読者に、礼拝における聖餐式を思い出させる。
 今日、私たちは直接復活のイエスにお会いすることはない。しかし、礼拝において聖書が解き明かされ、聖餐式がなされる時、その場で、私たちは復活のイエスとの出会いを経験できるのである。この二人が復活のイエスに気づかされるエピソードは、私たちにもイエスとの出会いに期待を抱かせる。