■すくい 救い
救いと訳されるおもな原語に〈ヘ〉イェーシャ,〈ギ〉ソーテーリアがある.
〈ヘ〉イェーシャは,広さ,拡大などの原意を持ち,後に安楽,安全,戦いに勝つなどを意味するようになった.
また〈ギ〉ソーテーリアは,治癒,回復,贖い,救済,解放などの意味に用いられている.
いずれの語も,人間を不幸にする圧迫,脅威,危険から人間を解放し,健康,自由,真の幸福を与えることを意味している.
どのような宗教にも共通して見られることは,その神が信奉者を救出するという概念を持っていることである.
旧約聖書の前半部分において救いは,神がそのしもべ個人個人に敵の手から逃れる道を備えたり,束縛からの解放や広大な地での建国などへの助力を与えることを意味し,後半の部分では,道徳的,霊的状態の祝福,国境を越えて拡大する至福の生活などを強調している.
新約聖書においては,人の罪への隷属や危険からの救いが,キリストのみに見出されるものとして示されている.
このように聖書は救いについてまず人間の経験を出発点とし,具体的状況からの救出を意味する語を用い,さらにその内容が道徳的,霊的救いという神の働きの最も本質的なものへと向かっている.
そしてまた神がいかに救いのための基盤を備え,与え,神御自身が救いそのものであるかを明示している.
実に救いは聖書理解のかぎとなる主題である.
1.旧約聖書における救い.
(1)歴史的出来事と救い.
イスラエル人は初め,救いをこの地上的なことに焦点をおいて考えていたようである.
その内容を端的に表すものとして,長命と繁栄,物質的祝福,豊かな土地,収穫などがあげられている(申5:16,7:13‐15).
これらの救いは律法,戒めを遵守するという倫理的行動に伴って神から与えられるものである(申4:40,5:33).
また,イスラエルが民族的危機に直面した時,神は必ず彼らを救うとの確信が旧約聖書の底流となっている.
それは,この民の過去の歴史における最も重大な出来事である出エジプトを通して現された神の救いのわざに基づいている.
神は出エジプトに際して,イスラエルの民をエジプトにおける隷属状態から贖い出し,解放して救い出したのである(出6:6,14:13,15:1‐18).
やがて「救い」は,国民的勝利と同一に見なされ,イスラエルに反抗する敵が打ち破られると,それは神がイスラエルのために直接手を下した結果である,と受け止められるようになった(申20:3‐4).
その後のイスラエルの歩みにおいても,この救いの概念は変らず,民のうちに持ち続けられた.
戒めを破り,背信し,偶像礼拝を行うなどの罪を犯し,その罰として敵の足下に隷属させられるが,悔い改めて神に立ち返ると,神が遣わされた指導者を通して,あるいは御手のわざによって救い出される.
この罪と救いの循環的な繰返しのサイクルの中に,敵に対する勝利としての救いを見出すことができる(士3:7‐15).
そして真の神の臨在こそが,彼らの救いの源であることが明らかにされていく.
(2)民の罪と救い.
初め救いの単位は,民全体か,少なくとも家族ごとであった(創6:18,19:12).
家族の一人の罪により,他の者たちまでが救いを失い,共同体全体が苦しみ,さばきを受けた(ヨシ7:24,Ⅱサム21:6).
しかし個人の罪の責任の概念も少しずつ把握されていき(申24:16,エレ31:29‐30,エゼ14:14,18:4),罪を犯さない者は一人もいない(Ⅰ列8:46,伝7:20)と表明されるようになった.
人が民族の安定と福祉を破壊するような社会的罪,不正・不義などの倫理的罪,祭儀の規定や食事の規定などを破る祭儀的罪,そして背信・偶像礼拝などの霊的罪を犯した時に「救い」を喪失し,神およびその民との交わりを絶たれる.
しかしある種の罪は,悔改めと供犠により神のさばきを免れた.
正しき者の危機・苦しみからの救いは,その祈りの中に示されている.
義人の救いは神からくる(詩33:18‐19).
危険にさらされた時,神だけが救いの確証であり,多くの人々が主の御名を呼び求めて救い出されている(詩107:13,19,ダニ3:28,6:27).
人の力を頼みとする高慢と尊大さとが打ち砕かれ,神に対する謙遜と信頼,服従のあるところに救いが実現している.
(3)終末的な預言と救い.
旧新約聖書の両方に共通していることは,救いがその時点において真実であり,すでに成就しており,その力は人々のうちに働いているが,しかしすべての悩みや苦難がなくなる全的な実現,すなわち最終的完成は未来のこととしていることである.
旧約において神の救いは出エジプト,荒野での救助と導き,侵入してきたアッシリヤ軍の打破,バビロン捕囚からの解放などにすでに現されているが,神の民の最終的な贖いは「終りの時」「主の日」まで待つことになる(イザ35:4,45:17,52:10,エゼ34:14).
2.新約聖書における救い.
(1)福音書における救い.
バプテスマのヨハネは「神の国」の出現が間近いことを告げ,それに先立つ悪しき者への火のさばきと義なる者への聖霊の授与とを約束している(マタ3:2,ルカ3:2‐17).
ヨハネの告げる神の国は,神の終末的,王的支配を意味するが,彼はその備えのために,民族的特権への過信に対する警告のメッセージを伝え,悔改めを迫り,その外的しるしとして水のバプテスマを施した.
バプテスマのヨハネによって進められた終末的信仰覚醒運動は,イエスによって受け継がれ,「悔い改めなさい.天の御国が近づいたから」(マタ4:17)と宣言された.この宣言は「さばきが近づいた.悔い改めて,さばかれないようにしなさい」という意味である.
イエスの教えはこのように未来的な内容を持ち,積極的には神の国に入ることを,消極的にはやがてくるさばきからの救いを示している.
共観福音書では,イエスによる「救い」が病人のいやし(参照マタ9:21‐22欄外注)から進められ,預言の成就としてのメシヤの到来が強調されている(ルカ4:18‐21).
またガリラヤ湖の嵐を静めて弟子たちを救い(マタ8:23‐27),おぼれかかったペテロを助けて(マタ14:31),イエスへの信仰を求めている.
そして身体的な苦しみと霊的な罪からの救い主として病人をいやし(マコ2:10),罪深い者に罪の赦しと救いの訪れとを告げている(ルカ7:48,19:9).
ヨハネの福音書は,イエスが神の御子であることを明らかにする奇蹟(しるし)を7つ取り上げ,イエスこそキリストであり,彼を信じ受け入れる者を「神の子ども」とし,これに永遠のいのちを与え,滅びから「救う」ことを示している(ヨハ1:12,3:36).
このように神の終末的,王的支配はイエスと共に到来した.
イエスはこの世をさばくためではなく,人々を罪責,律法の束縛,苦難,死,悪魔,滅びから解放し,失われた者を尋ね出して救い,豊かにいのちを与えるために世に来られたのである.
(2)使徒たちの教え.
イエスの復活と聖霊の降臨の後,使徒たちは「救い」が旧約の預言通り成就したことをその宣教の主題とした.
また彼らがイエスの名によって行った奇蹟も,この宣教の主題を確認するものであった(使3:6,4:9‐12,16:18).
この曲った時代から救われる条件は,イエスを信じること(使16:31),その名を呼び求めること(使2:21)であった.
そしてこの福音は,まずユダヤ人に,次に異邦の民へと伝えられていったのである(使11:19,28:28).
福音の前進に伴い,「救い」と罪の概念はさらに明確にされていった.
罪とは神の律法の侵犯であり(Ⅰヨハ3:4),神の正義に対するとが,神の聖に対する汚れ,不信である(ロマ1:24).
この罪の結果は,神へのきよい愛の欠如,道徳的性質の腐敗,悪に偏向した堕落と,神の怒り(ロマ1:18)の罪責,肉体的,霊的,永遠的の三重の性格を持つ死の刑罰をもたらした(ロマ6:23,エペ2:1).
この罪の力に束縛された人類に,神は御子を遣わし,「すべての人が救われて,真理を知るようになるのを望んでおられる」(Ⅰテモ2:4,Ⅰヨハ4:14).
御子イエスは十字架の死と復活により罪の贖いのわざを完成し,「従うすべての人々に対して,とこしえの救いを与える者」となられた(ヘブ5:9).
このイエス・キリストの出来事を伝える福音は「信じるすべての人にとって,救いを得させる神の力」であり(ロマ1:16),信じて信仰を告白する者は救われ(ロマ10:9),バプテスマを受けることにより,確かなものとされる(Ⅰペテ3:21).
実に救いは,人間のわざによるのではなく,神のあわれみと恵みと聖霊の働きにより与えられるのである(Ⅱテモ1:9,テト3:5).
(3)救いの完成を目指して.
「救い」は,キリストの贖いのわざによって現実化し,信じ受け入れる者はこの世においてその祝福を先取りすることができるが,この「救い」の最終的完成は歴史の終りの時まで待つべきものとされている(Ⅰペテ1:5).
人の「救い」の体験は時間的に見ると,過去,現在,未来の三重の様相を呈しており,それぞれを救いの所有性,進展性,待望性と表現することができる.
a.所有性.
信仰者は「救い」の相続者とされ(ヘブ1:14),その罪を赦され完全に義なる者とされている(ロマ5:1).
そしてキリストの贖いにより神と和解し(Ⅱコリ5:18),すべての悪からきよめられ(Ⅰヨハ1:9),神の子供である確信を聖霊によって与えられている(ロマ8:16).
これらは人が信じて救われた時に,神から与えられた恵みの賜物である.
b.進展性.
神の恵みによって始められた救いのわざを信じ受け入れた者は,聖霊の助けにより,救いの達成に努めなければならない(ピリ2:12).
そして,不敬虔と汚れと世的欲望が渦巻く邪悪な時代の中にあって,世の光として輝くことを求められている(ピリ2:16).
そのために,たましいを救う力を有し,信仰を養い,神のみこころを示すみことばに親しみ,それに従うことが肝要である(Ⅱテモ3:15,ヤコ1:21).
また聖霊の助けにより聖化の実現をはかり(Ⅱコリ7:1),ますます神の御性質にあずかる者となり(Ⅱペテ1:4),愛の奉仕にいそしみ,多くの実を結び,神に栄光を帰す者となるのである(ヨハ15:8,ガラ5:22‐23).
c.待望性.
信仰者はこの世にあってすでに「救い」の恵みと力にあずかり,その祝福を味わうことができるが,救いのすべてが完全に実現しているわけではない(ヘブ9:28).
永遠の祝福,からだの贖い,神のさばき,キリストの再臨など,将来の「この望みによって救われている」(ロマ8:24)のである.
信仰者は「救い」を得るように定められているが(Ⅰテサ5:9),終りの時までその救いによって相続するものを待たなければならない(Ⅰペテ1:5).
信仰者は,この救いの完成の時が間近になっていることを覚え,信仰の歩みを確かにすることが求められている(ロマ13:11).
そして救いが完成する時,信仰者は悪と病気と苦難,死などから全く解放され,生ける真の神を賛美しつつ,御前に親しく仕えるようになるのである.
それは神なるキリストの悪魔の勢力に対する真の勝利と共に実現する(黙7:10,21:3‐4).
(本辞典「あがない」の項を参照).
〔参考文献〕H・シーセン『組織神学』聖書図書刊行会,1961; 『聖書思想事典』三省堂; TheNew Bible Dictionary, IVF, 1962; Orr, J. ed.,The International Standard Bible Encyclo-paedia, Eerdmans, 1944; The InterpretersDictionary of the Bible, Vol.4, Abingdon,1962.
(藤井 力)