2003-52 12月28日
週 題 エジプトへ
主 題 神は完全に守ってくださる。 マタイ2章
暗 唱 聖 句 まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。 詩篇91:11
【単元の流れ】
日本では、12月25日を過ぎると、あっという間にクリスマスは片づけられてしまう。日本の社会では、3月4日以降のひな飾りと12月26日以降のクリスマス飾りは、「出遅れ」「興ざめ」の代名詞のように扱われている。
しかし、ひな飾りはキリスト教とは関係がないのでともかく、クリスマスに関して言えば、クリスマス当日までは「アドベント」、つまりクリスマスを待ち望む日々であり、主イエスがお生まれくださったことを祝うクリスマス当日からがいよいよ本当のクリスマス・シーズンと言ってもいいくらいである。
聖書では、マタイにもルカにもちょっとしたクリスマス後日談が記述されている。多くの教会では、クリスマスの翌週(年末)の礼拝で、これらの箇所を見るのではないだろうか。
ルカには、出産後のきよめの儀式を守るため神殿に出向いたヨセフ一家が、シメオンとアンナという二人の信仰深い老人と出会うという、心温まるエピソードが記録されている。
マタイには、逆に緊迫した血なまぐさいエピソードが記録されている。今年はマタイから学んでみよう。
【今週のテーマ】
ルカとマタイの二つのクリスマス後日談の関連はどうなっているのだろうか。ヨセフ一家いいつまでベツレヘムにいて、いつエルサレム神殿に出向き、いつエジプトに下って、いつナザレに帰ったのだろうか。
聖書が記述していないので確かなことは言えないが、ヨセフ一家は出産後もしばらくベツレヘムにとどまり、一月ほどしてエルサレム神殿に出かけた(レビ12章の規定に従い、マリヤの体調の快復、誕生直後の赤ん坊の健康も考えて)。その後いったんベツレヘムに戻った。その前後に東方の博士たちの来訪があった。おそらく博士たちから受けた贈り物によって経済的な安定を得て、御使いの御告げに従いエジプトに下り、そこで数年過ごした。そうして後にようやくナザレに帰ることができたのであろう。住民登録のためにベツレヘムに向かった時には想像もしないほどの長い旅となった。
こうしたいっさいを通して、神はヨセフ一家を確実に守ってくださった。幼子イエスは、やがて公生涯を開始なさるまで、間違いなく神の守りのうちに成長されたのである。
【暗唱聖句の説明】
この暗唱聖句の意味は、前述のとおりである。ただ、今日、私たちは「御使い」を目撃したり、その御告げを聞いたりすることはないであろうが、神の守りは変わらない。
東方の博士たちの来訪は、先週のクリスマス礼拝で、羊飼いたちの訪問と一緒に学びたかった、と思う人もいるだろう。事実関係から言えば、時間的には別々の訪問であったようなので、二週に分けて扱って問題はないのであるが、それでも、今日は降誕に続く後日談を学ぶといった感じが強いので、博士たちの来訪自体については簡単に扱うことにする。
1.東方の博士たち。マタイ2:1,2
「東方の博士たち」は、おそらくバビロニヤ近辺の国から神王の誕生をいわうために遣わされた表敬使節である。
本来は、星によって国の吉兆を占う占星術師であろうが、古代においては科学としての天体観測が星占いと密接につながる形で進められていたので、未分化であってもしかたがない面がある。(今の私たちの時代の学者が取り組んでいる「科学」も、後代の人から見れば「非科学的」と思われるかもしれない。)
その博士たちが不思議な星の動きを観察した。あるものは、BC7年ごろの木星と土星の大接近のことであろうが、あるものは、一度きりの超自然的な星の動きであったろう。それらの星の動きを、イスラエルにおける王子の誕生と読み取って、国を代表して表敬訪問の旅に出たのである。
2.礼拝と敵意。マタイ2:3-12
博士たちは当然のこととして、まずエルサレムの王宮を訪ねた。王子は王のもとで生まれるに決まっているからである。
しかし、当時イスラエルを治めていたヘロデ王にしてみれば、心当たりがない。どこかで生まれたとすれば、自分のライバルとなるはずである。こうしたヘロデ王の気持ちを理解するためには、彼が半分エドム人の血が入った外国人であったことを知る必要がある。旧約に予告されているように、いつかダビデ王朝が再興されるという不安を彼はずっと抱いていたのである。
博士たちは、旧約の預言を知らされ、さらに星に導かれて、ベツレヘムで新しい王を礼拝した。一方ヘロデ王は、その王と称される赤ん坊をライバルとして抹殺する計画を立てた。
3.エジプトへ。マタイ2:13-23
博士たちの高価な贈り物は、貧しいヨセフ一家にとって、数年間におよぶエジプト逃避行の資金となったことであろう。赤ん坊イエスは、ヘロデの手を逃れることができた。
しかし、ベツレヘム近辺で多くの幼子が殺されたことは、旧約預言の悲しい成就となった。
イエスの誕生には、その周辺に人の死や悲しみ、憎しみが色濃く立ちこめていた。そうした人間の罪のために、救い主はお生まれになり、人々の罪を負ってやがて十字架の死に向かう定めを、最初から負っておられたからである。
その贖いの死まではまだ年月が必要であった。その間、主イエスは、神の確かな守りによって成長していかれた。