■しとのはたらき 使徒の働き
1.著者.
2.執筆年代.
3.執筆場所.
4.あて先.
5.目的.
6.資料.
7.歴史性.
8.内容.
1.著者.
この書の著者がだれであるか,本書には明示されていない.
しかし,著者がだれであったかを割り出す手がかりとなる内的証拠は多くある.
まず第1に,この書がルカの福音書と同一の著者によって書かれたことは明らかである.
それは,
(1)この書がルカの福音書と同様に,「テオピロ」という人物にあてて書かれていること(1:1),
(2)この書の著者は「前の書で,イエスが行ない始め,教え始められたすべてのことについて書き,お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから,天に上げられた日のことにまで及びました」(1:1‐2)と述べているが,これはルカの福音書の内容と一致すること,
(3)この書とルカの福音書は用語や文体においても一致すること,などから容易に推測される.
第2に,この書のある部分は「私たち」という1人称複数の人称代名詞を用いて書かれている(16:10‐17,20:5‐15,21:1‐18,27:1‐28:16).
これは一般に「私たち章節」と呼ばれているが,この部分は著者自身の筆になるものと考えられる.
それゆえ,著者はパウロの第2回伝道旅行の時に,トロアスから彼の一行に加わってピリピまで行き,パウロの第3回伝道旅行の帰途,ピリピから再び一行に加わってエルサレムまで行き,さらにカイザリヤからローマまでの船旅をパウロと共にした人物である.
第3に,ルカの福音書の序言(1:1‐4)から,著者はイエスの出来事の直接の目撃者ではないこと,第4に,ギリシヤ古典にならったギリシヤ語の文体から,相当教養のある異邦人であったことが分る.
以上が著者を割り出す手がかりであるが,使20:4にパウロに同行した者としてあげられている「プロの子であるベレヤ人ソパテロ,テサロニケ人アリスタルコとセクンド,デルベ人ガイオ,テモテ,アジヤ人テキコとトロピモ」は著者が第三者としてあげている人たちであるから,著者ではないと考えてよいであろう.
さらに,コロ4:9‐14には,オネシモ,マルコ,ユストと呼ばれるイエス,エパフラス,ルカ,デマスなどの名があげられている.
このうち,オネシモはパウロの伝道旅行に同行したわけではないので除外される.また,マルコとユストはユダヤ人であるので除外される.
残るのはエパフラス,ルカ,デマスの3人になる.
ここで,外的な証拠として,教父たちの証言に目を転じなければならない.
イレナエウスは『異端反駁論』(180―185年頃)の中で「ルカは自分の教師であるパウロののべ伝えた福音を,一巻の書物にしるした」と述べている.
これは,ルカの福音書と使徒の働きが同一著者の筆によるものであるということから,使徒の働きの著者に関する証言としても採用できる.
しかし,もっと明白な証言は「ムラトリ断片」と呼ばれている新約正典目録によってなされている.
この正典目録は,180年頃作られたものと考えられているが,その中で「さらに,すべての使徒たちの活動も,一巻の書物に収められている.
ルカはそれらをテオピロ閣下にあてて書いたが,それはいくつかの事柄がテオピロのいる前で起ったからである」と述べている.
さらに,ルカの福音書の「反マルキオン序文」(160―180年頃)も「ルカは,アンテオケ出身のシリヤ人で,職業は医者である.
彼は使徒たちの弟子で,後にパウロの殉教まで彼に同伴した.
妻も子もなく,余念なく主に仕えた.
彼は84歳で,聖霊に満たされて,ボイオティアで眠りについた.
ルカは,聖霊に動かされて,アカヤ周辺の地域でこの福音書を編んだ.
……後に,同じルカは『使徒の働き』をも書いた」と述べている.
このように,すでに2世紀の後半には,この書がルカによって書かれたということは認められていた.
上述した内的証拠と外的証拠を総合すると,ルカが著者であるという結論が最も妥当である.
さて,このルカはコロ4:14では「愛する医者」と呼ばれており,パウロが獄中生活を送っている時にも共にいたことが明らかである.
またピレ24節では,パウロの「同労者」の一人とされている.
このことは,ルカが「私たち章節」の著者であるということを裏書きするものである.
また,Ⅱテモ4:11では,「ルカだけは私とともにおります」と言われており,パウロの獄中生活の最後まで共にいたことを示している.
使徒の働きは,パウロがローマで満2年の間獄中生活を送ったことを記して終っているが,ルカはその後もパウロに付き添って,パウロの健康管理や,身の回りの世話をしたと思われる.
彼は医者であったので,教養もあり,古典的文体のギリシヤ語を書くことも不可能ではなかったであろう.
伝承によれば,彼はシリヤのアンテオケの出身であるとか,画家であったと言われているが,聖書はそのことについては何も述べていないので,明言することはできない.
2.執筆年代.
この書はパウロがローマに到着して,囚人として捕えられてから満2年が経過した(使28:30)という時点で終っている.
これは普通61年頃と推定されているので,この書はそれ以後に書かれたことは明らかである.
しかし,実際にいつ頃書かれたのかということになると,学者により意見の違いがある.
まず第1に60年代前半とする説がある.
この説は,本書の中に70年のエルサレム陥落を示唆するような記事が何もないこと,64年頃殉教したと思われるパウロの死を示すような記事もないこと,またローマ皇帝ネロは64年のローマの大火の責任をキリスト者に転嫁して迫害を始めたが,そのことに関する記事もないことから,この書がそれ以前に書かれたと推測する.
特に本書が突然終っているように見えるのは,ルカがこの時点まで書いてきた時,もう書くべきことが何もなかったためであると考えるのが,最も事実をよく説明できるように思える.
ルカはさらに第3巻を書いたのだと考える者もあるが,そのことを示す積極的な証拠は何もない.
したがって,61年以後,64年までに書かれたと考えるのが,最もよいであろう.
第2の説は70年以後90年までの間に書かれたと考える.
この説はルカの福音書が70―80年代に書かれたということを根拠としている.
確かに,本書はルカの福音書の続編として書かれたのであるから,ルカの福音書より後に書かれたことは確かである.
しかし,ルカの福音書が70―80年代に書かれたという根拠は,どこにあるのだろうか.この説を主張する者はその第1の理由として,ルカはマルコの福音書を資料として用いているのでマルコの福音書よりも後に書かれたのであり,マルコの福音書は65―70年頃に書かれたと考えられるので,ルカの福音書は70年以降に書かれたことになると言う.
しかし,マルコの福音書がこの年代に書かれたという確証はない.
また,マコ13:14のことばはエルサレムの陥落をある程度予測し得る時点で書かれたものであると考えるが,イエスに預言する能力があったことを認めるなら,このような推測は根拠を失う.
むしろ,マルコの福音書は50年代に書かれたという可能性もある(本辞典「マルコのふくいんしょ」の項を参照).
マルコが50年代に書かれたとするなら,ルカが60年代前半に書かれたとしても問題にはならない.
第2の理由として,イエスがエルサレム滅亡についての預言をした記事にエルサレムが軍隊に包囲されるという具体的表現があるのは,ルカが70年のエルサレム陥落を知っていて加えたためであると言う(参照ルカ19:43,21:20).
しかし,エルサレムが包囲されるということは,ユダヤ人にとっては比較的常套的な句であり(参照エレ19:9,エゼ4:2,7‐8,5:2,ダニ1:1,ゼカ12:2),特にゼカ12:2では終末的文脈において用いられている.
したがってイエスの終末的な講話の中にエルサレムが包囲されるということばがあっても,それを70年のエルサレム陥落と関連づけて理解し,ルカによる付加であると理解する必要はない.
旧約を熟知していたイエスは,旧約において預言されている線に従って預言したのである.
また,イエスはルカ21:21において,そのような時にはユダヤにいる人々は「山へ」逃げるように教えているが,66―70年のローマの軍隊によるエルサレムの包囲の時には,実際には人々は山ではなく,ヨルダン川東岸のペラへ逃げた.
このことからも,これらのことばは必ずしも70年以後にルカの福音書が書かれたことを示すものではないと言えよう.
そもそも,この立場をとる者は,イエスが預言する能力を持っていたことを否定する立場を前提としているので,エルサレム滅亡の預言もルカによる事後報告であるとするのである.
ルカの福音書は60年代前半に書かれたとするのが適当であり,したがって使徒の働きが70―90年の間に書かれたとする説は受け入れがたい.
3.執筆場所.
この書がどこで書かれたかは明示されていないが,おそらくローマで書かれたと推測される.
使28:16からルカはパウロと共にローマに行ったと考えられる.
さらに,コロ4:14では,パウロと共にローマにとどまっていたことが分る.
しかも,Ⅱテモ4:11によれば,パウロの最晩年まで彼と共にいる.
このような事実から,ルカはパウロがローマの獄中で生活している間,いつも彼と共にいたことが分る.
使28:30によれば,パウロは少なくとも2年間はローマにいたのであるから,ルカはこの間に彼の福音書と共に,この書をも書く時間的余裕があったであろう.
このような理由から,ローマで書かれたと考えるのである.
4.あて先.
1:1から,この書はテオピロにあてて書かれたことは明らかであるが,彼がどのような人物であったかは,あまり詳しく知ることができない.
テオピロという名は,当時一般的に用いられたものであり,〈ギ〉セオス(神)と〈ギ〉フィロス(友)に由来し,「神の友」という意味を持っている.
ルカ1:3では「尊敬するテオピロ殿」と敬称が用いられているが,この敬称(〈ギ〉クラティストス)は使23:26,24:2,26:25において(これらの箇所では「閣下」と訳されている)ローマの総督に対して用いられているので,テオピロもローマの高官であったと考えられる.
彼はルカ1:4において「すでに教えを受けられた」と言われていることから,キリスト教の教えを受けた者であることは明らかである.
しかし,「よくわかっていただきたい」(ルカ1:4)という句に用いられている〈ギ〉エピギノースコーという動詞は,「はっきりと知る」という意味なので,キリスト教に対する知識はそれほど深いものではなく,また,あまり明確なものではなかったと考えられる.
しかし,テオピロを特定な個人と考えず,集団と考える見解もある.
それはテオピロという名が「神の友」という意味であることから,神を愛し,神の友となったキリスト者一般を指すと考えるからである.
しかし,〈ギ〉クラティストスという敬称が用いられていることから考えると,この見解は不自然である.
さらに,テオピロはルカに彼の福音書と使徒の働きを著述させ,出版する費用を負担したパトロンであり,ルカはそのためにこれらの書をテオピロに献呈したのであるという見解もある.これは推測の域を出ないものではあるが,興味のある見解と言えよう.
いずれにしても,この書は本来はテオピロ個人にあてられたものではあるが,広くキリスト教に関心のある人々を対象として書かれていると言ってよいであろう.
5.目的.
この書はルカの福音書の続編であるということから,この書の目的も,ルカの福音書序文に書かれていることと関連があると言えよう.
すなわち,ルカはテオピロにすでに得ていたキリスト教に対する理解を深めさせ,さらにそれが正確なものであるという確信に至らせるために書いたのである.
しかし,使徒の働きそれ自体として見る時に,そのような目的と同時に,さらに具体的な目的を見出すことができよう.
その第1は,初代教会の歴史を示すことであった.
もちろん,この場合の「歴史」という意味は,現在における社会科学的な観点からの「歴史」という意味でもなければ,正確な年代記のようなものを意味する「歴史」でもない.
ルカは1世紀の人であり,現代の私たちが考えているような歴史観を持っていたわけではない.
もっと大らかな意味における歴史であり,彼の意図による取捨選択も,かなり大胆になされている.
しかし,とにかく,キリスト教がエルサレムから出発して,どのようにしてローマまで到達して行ったかを具体的に教えてくれるのは,新約文書中この書だけである.
テオピロがローマの高官であったならば,当時のローマ人の世界観を考えると,一地方にしかすぎないユダヤのエルサレムに源を発したキリスト教がローマにまで到達する過程は,非常に興味のあることであり,また重要な意味を持っていたことであろう.
また,ルカは彼以前にもキリスト教信仰の基礎であるイエスの行動と教えについて「記事にまとめて」書いた人々がいたことを知ってはいたが(ルカ1:1‐2),それらの記事が,イエスから出発したキリスト教の発展の歴史にはふれていないのを知って,福音書の続編として初代教会の歴史を書く必要を強く感じたのであろう.
目的の第2として考えられることは,弁証的要素である.
ルカはキリスト教がユダヤ教の中から起り,ユダヤ教と密接な関係にあることを示している.
たとえば,パウロは依然としてユダヤ教のきよめの儀式を守っており(21:26),誓願を立てて髪をそり(18:18),テモテに割礼を受けさせている(16:3).
これらの記述は,当時ユダヤ教がローマの公認の宗教であったので,キリスト教も何らあやしい宗教ではなく,ユダヤ教と同様に公認されてよい宗教であることを訴えるためであったと考えられる.
さらに,この書に現れてくるローマの官憲は,いずれもキリスト教に対して好意的で寛容な態度をとっていることを強調している.
たとえば,キプロスの地方総督であったセルギオ・パウロは,使徒パウロが魔術師エルマに対して神のさばきを宣言するのを見て信仰に入り(13:12),アカヤの地方総督であったガリオは,ユダヤ人がパウロを訴えたのに対して,宗教的な問題に対しては一切関与しないと言ってその訴えを却下した(18:14‐15).
また,エペソで暴動が起った時,アジヤ州の高官たちやエペソの町の書記役は,パウロに対して好意的態度をとった(19:31,35‐41).
さらに,アグリッパ王や総督フェストらは,パウロが死罪や投獄に当るようなことは何もしていないことを認めており(26:31),アグリッパはフェストに対し,「この人は,もしカイザルに上訴しなかったら,釈放されたであろうに」(26:32)と言って,パウロの無罪を認めている.
これらのことからも,キリスト教はローマに対して政治的に害をもたらしたり,社会秩序を乱すような宗教ではなく,ユダヤ人のキリスト教に対する非難は当を得ていないことを明らかにする弁明的意図をもってこの書が書かれたと考えられる.
特にローマの地方総督たちがキリスト教に対して寛容な態度をとったことを明らかにすることによって,ローマ帝国全体においても同様な態度がとられるように,テオピロを通して中央政府に訴えて働きかけるためにこの書を書いたと理解することもできよう.
さらに,パウロは22章では民衆に,23章ではユダヤ人の議会に,24章では総督ペリクスに,25章では総督フェストに,26章ではアグリッパ王に対して弁明をしている.
これだけ多くの分量をルカがパウロの弁明のために割いたということも,ルカの意図を十分にうかがわせるに足りるであろう.
第3には,パウロの裁判における弁護のためと考えることができよう.
この書はパウロがローマに到着後2年たった時点で終っているが,その頃パウロの第1回の裁判はカイザルのもとで審理中であったと考えられる.
ルカはローマの高官であったテオピロに対し,キリスト教の由来と性格を説明し,キリスト教に対する誤解を取り除き,パウロの裁判が有利に展開するよう,カイザルに働きかけてもらうことを意図していたのではないだろうか.
特にこの書が前半はペテロやヨハネを中心としたエルサレム教会の宣教活動を取り上げながら,後半は専らパウロの宣教活動に的がしぼられていること,また1:8において,「エルサレム,ユダヤとサマリヤの全土,および地の果てにまで」と言いながら,その地の果てとはローマという特定の地点に限られていることなどを考えるなら,ルカにとっては,パウロとローマが使徒たちの働きの中で最も関心の深い点であったことは明らかである.
使徒たちはパウロ以外にも多くいたし,彼らの活動した地域はアフリカの地中海沿岸地帯や,中近東を経てインドにまで及んだと伝承は伝えている.
それなのに,ルカがことさらにパウロの伝道活動と,捕えられてローマに連行されたことに的をしぼっていくのは,やはりパウロの裁判に有利になるように弁明の書を書く必要があると感じたからではないだろうか.
そして,このように考えることによって,この書の末尾が突然終ったようになっている理由もうなずけるのである.特に26:32の「この人は,もしカイザルに上訴しなかったら,釈放されたであろうに」というアグリッパのことばは,ルカの真意を代弁しているのであろう.
また,上述したように,ルカが22‐26章を専らパウロの弁明に費やしたのも,この目的のためであったと考えることもできよう.
6.資料.
ルカがこの書を書くに当ってどのような資料を用いたかということは明らかではないが,少なくとも「私たち章節」(16:10‐17,20:5‐15,21:1‐18,27:1‐28:16)と呼ばれている部分は,ルカが直接目撃したことに基づいていると考えられる.
また,彼はパウロの同労者であり,カイザリヤでの2年間とローマの獄中で少なくとも2年間はパウロと共に過していたので,パウロの伝道活動や,説教および弁明の内容については,パウロから直接聞くことができたであろう.
ルカはパウロの同労者であったシラス,テモテ,テトスなどとも知り合いであったかもしれないので,彼らから資料を得ることもできたであろう.
さらに,彼はマルコと共にいたことも明らかである(コロ4:10,14).
マルコの母の家はエルサレム教会の集会場に用いられていたので(使12:12),マルコはエルサレムにいた使徒たちを初めとする多くの弟子たちを知っていたと思われ,エルサレム教会の初期の状況については,彼から情報を得たのかもしれない.
ルカはパウロと共に伝道者ピリポの家に滞在したこともあるので(使21:8),ピリポから資料を得たことも考えられる.
ピリポは「毎日の配給」のことで選ばれた7人の中の一人であり(使6:1,5),ステパノと同僚であったので,配給のことやステパノの殉教については彼から資料を得たのかもしれない.
エウセビオスによれば,ルカはアンテオケ出身だったので(『教会史』3:4),アンテオケ教会のことに関しては,彼自身が知っていたかもしれない.
そのほかにもルカ1:1‐3によれば,ルカは福音書のために成文の資料も用いたと語っているので,本書のためにも成文の資料を用いたという可能性もあるが,この点についても明らかではない.
7.歴史性.
ルカは彼の福音書にも見られるように,新約聖書の他の記者たちと比較して,歴史的な面に対する関心度が高い.
たとえばイエスの誕生は皇帝アウグストが住民登録をせよという勅令を出した年で(ルカ2:1),その時シリヤの総督はクレニオであった(ルカ2:2)とか,バプテスマのヨハネがヨルダン川のほとりで宣教活動を行ったのは皇帝テベリオの治世の第15年であり,ポンテオ・ピラトがユダヤの総督,ヘロデ・アンテパスがガリラヤの国主,ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の国主,ルサニヤがアビレネの国主であった頃(ルカ3:1)と述べている.
このようにルカは聖書以外の一般的歴史にも関心を注ぎ,聖書の出来事を,世界史の年代と関連させて述べている.
このような態度は,本書の中にも見られる.
たとえば,
(1)11:28の大ききんはクラウデオの治世に起った,
(2)12:20‐23のヘロデ・アグリッパ1世の死の事件,
(3)パウロが第1回伝道旅行の際にキプロスで伝道した時の地方総督はセルギオ・パウロであった(13:7),
(4)パウロが第2回伝道旅行の時にコリントで出会ったアクラとプリスキラは,クラウデオ帝がユダヤ人をローマから退去させる命令を出したために,イタリヤから移住してきた者たちであった(18:2),
(5)パウロはコリントで1年半伝道したが,ガリオがアカヤの総督であった時にユダヤ人によって訴えられた(18:12),
(6)パウロはエルサレムで捕えられてカイザリヤに護送されたが,そこで尋問された時の総督はペリクスであった(23:26,24:27),
(7)パウロはさらに,ヘロデ・アグリッパ2世,ベルニケ,ペリクスの後任として総督となったフェストの前でも取り調べられた(25:13‐26:32)などが,本書の中で言及されている.
これらの言及はヨセフォスの『ユダヤ古代誌』を初めとする当時の歴史的文献や史料から,かなり正確に年代を推定することができる.
それを列挙すると,次のようになる.
(1)クラウデオの治世の大ききん 44―47年
(2)ヘロデ・アグリッパ1世の死 44年
(3)セルギオ・パウロの在任期間 40―50年
(4)クラウデオ帝のユダヤ人退去令 49年頃
(5)ガリオの在任期間 51―52年
(6)ペリクスの在任期間 52―58年
(7)フェストの着任 58年
これらの年代をもとにして,初代教会の歴史をある程度年代的に再構成することも可能になってくる.そして,ルカのこのような歴史的な関心のゆえに,パウロの生涯の年代もかなり正確に推定することも可能になるのである.
本書におけるおもな出来事の推定年代は次のようになる.
ペンテコステ 29年
パウロの回心 32年
パウロの第1回エルサレム訪問 34年
ききんの時の訪問 46年
パウロの第1回伝道旅行 47年
エルサレム会議 49年
パウロの第2回伝道旅行開始 49年春
ユダヤ人退去令 49年頃
アクラとプリスキラのコリント到着 49年秋
パウロのコリント到着 50年初頭
パウロのコリント出発 51年夏
パウロの第2回伝道旅行の終り 51年末
パウロの第3回伝道旅行 53年春―56年春
パウロのエルサレムでの逮捕 56年晩春
パウロのカイザリヤ滞在 56年夏―58年秋
パウロのローマ到着 59年春
パウロの殉教 64年秋
以上の年代は前述したようにあくまで推定であり,2―3年の幅はあるが,今から2千年ほど遠い昔の出来事の年代をこれほど詳細に知り得るというのは,ルカのこの記述のおかげである.
そして,このことにより,新約聖書全体が,その当時の歴史の枠組みの中に正しく位置づけられるのである.この点において,ルカ文書の歴史性は大いに評価されてよいだろう.
8.内容.
この書は前半の1‐12章ではペテロが中心人物になっており,後半の13‐28章ではパウロが中心人物になっているので,それに従って2分することもできるが,ここでは1:8のことばに従って,
(1)エルサレムにおける宣教(1‐7章),
(2)ユダヤとサマリヤの全土における宣教(8‐12章),
(3)地の果てまでの宣教(13‐28章)に分類して,その梗概を示すことにする.
1.エルサレムにおける宣教 1:1‐7:60
(1)準備期間(1:1‐26)
(2)五旬節(2:1‐47)
(3)足のきかない男のいやし(3:1‐26)
(4)迫害の開始(4:1‐37)
(5)アナニヤとサッピラ(5:1‐42)
(6)7人の選出(6:1‐7)
(7)ステパノの殉教(6:8‐7:60)
2.ユダヤとサマリヤの全土における宣教 8:1‐12:25
(1)ピリポの宣教(8:1‐40)
(2)サウロの回心(9:1‐31)
(3)ルダとヨッパにおけるペテロの宣教(9:32‐43)
(4)コルネリオの回心(10:1‐11:18)
(5)アンテオケ教会の設立(11:19‐30)
(6)ヘロデ・アグリッパ1世の死(12:1‐25)
3.地の果てまでの宣教 13:1‐28:31
(1)パウロの第1回伝道旅行(13:1‐14:28)
a.出発(13:1‐3)
b.キプロス伝道(13:4‐12)
c.ピシデヤのアンテオケ(13:13‐52)
d.イコニオム,ルステラ,デルベ(14:1‐28)
(2)エルサレム会議(15:1‐35)
(3)パウロの第2回伝道旅行(15:36‐18:22)
a.出発(15:36‐16:5)
b.ピリピ(16:6‐40)
c.テサロニケからアテネへ(17:1‐34)
d.コリント(18:1‐17)
e.帰途へ(18:18‐22)
(4)パウロの第3回伝道旅行(18:23‐21:26)
a.エペソ(18:23‐19:20)
b.マケドニヤ(19:21‐20:6)
c.エルサレムへ(20:7‐21:16)
d.エルサレムでのパウロ(21:17‐26)
(5)ローマへの旅(21:27‐28:31)
a.パウロの逮捕(21:27‐23:30)
b.カイザリヤで(23:31‐26:32)
c.ローマへ(27:1‐28:31)
〔参考文献〕斎藤篤美「使徒の働き」(『新聖書注解』新約2)いのちのことば社,1973; F・F・ブルース『使徒行伝』聖書図書刊行会,1958;Guthrie, D., New Testament Introduction,Tyndale, 1970; Marshall, I. H., Luke:Historian and Theologian, Zondervan, 1970.
(山口 昇)