じゅにく 受肉

 

■じゅにく 受肉 「

受肉」とは,三位一体の第2位格である永遠の神の御子が歴史的人間性をとられた,という独特無比な一回的出来事を表している神学用語である.この「受肉」(〈ラ〉Incarnatio,英語ではIncarnation,ドイツ語ではFleischwerdung)という用語自体は聖書中に見出されないが,聖書は先在のキリスト(参照ヨハ1:1,6:38,Ⅱコリ8:9等)がナザレのイエスという形で人となったことを教えている.「ことばは人となって,私たちの間に住まわれた」(ヨハ1:14).「しかし定めの時が来たので,神はご自分の御子を遣わし,この方を,女から生まれた者……となさいました」(ガラ4:4).「キリストは,神の御姿であられる方なのに,神のあり方を捨てることができないとは考えないで,ご自分を無にして,仕える者の姿をとり,人間と同じようになられたのです」(ピリ2:6‐7).「確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です.『キリストは肉において現われ……栄光のうちに上げられた』」(Ⅰテモ3:16).「子たちはみな血と肉とを持っているので,主もまた同じように,これらのものをお持ちになりました」(ヘブ2:14).「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな,神からのものです」(Ⅰヨハ4:2).この受肉の事実に関する歴史的記述は,マタイの福音書(1‐2章)と,ルカの福音書(1‐2章)の中に見出される.C・S・ルイスが,「受肉がどんなことかを知りたければ,自分がなめくじやかにになった場合を想像してみなければならない」と言っているように,この受肉という事態の中には,当然神の御子,栄光の主の「謙卑」ということが含まれているが,それはイエス・キリストが神としての属性を放棄したとか,御自身の神性が縮小制限されたということではない.たとえば,ヨハ1:14の「ことばは人となって」において使われているギリシヤ語の動詞エゲネトは,永遠のことばが本質的に変化して,もはや永遠のことばであることをやめて一個の人間に成り下がったということではなく,永遠のことばはその本質を変えることなく,人間性というもう一つの存在形態をとられた,また加えられたことを意味する.また,彼がこの世に来られた時,「ご自分を無にし」(ギリシヤ語の動詞エケノーセン.ピリ2:7.参照ヨハ17:5)たという記述は,「貧しくなられた」(Ⅱコリ8:9)ということ,つまり,神としての特権や栄誉を主張せず,いや,それらをものともせずに御自身を低くされ,仕えるしもべとなられたということを意味するものであって,神としての本性を放棄した(ケノーシス説)という意味では決してない.

一方,聖書は「イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者」(Ⅱヨハ7節)を断罪している.当時,キリストは真の肉体を持たず,その人間性と受難は仮象にすぎないと説いていた「キリスト仮現説」と呼ばれる異端が存在していた.この説は,東洋思想やギリシヤ思想に見られる霊肉二元論,善悪二元論に立ち,神は善であるので悪である肉体を自らとることはできないと主張し,キリストがまことの人であることを否認した.Ⅰヨハ4:1‐3でふれられている異説は,このような思想であったと考えられる(参照Ⅰヨハ1:1‐3).

福音の中心的要素をなしているこのキリストの受肉には次のような目的があった.まず第1に,受肉論は十字架論への伏線であるということを知らなければならない.「和解の血は,和解を渇望していたその血からとられた」(A・カイパー)と言われるように,肉は罰を受けるためにとられた肉であった.神の義は,罪を犯した人間の性質と同じものが,罪の償いをすべきことを要求しているが,人間はみな自分自身が罪人であるので,だれも他の人のために償いをすることができない(参照「ハイデルベルク信仰問答」問16).そのため「神はご自分の御子を,罪のために,罪深い肉と同じような形でお遣わしになり,肉において罪を処罰された」(ロマ8:3)のである.第2に,受肉の天の父なる神を人間に示すためであった.ヨハネは,「いまだかつて神を見た者はいない.父のふところにおられるひとり子の神が,神を説き明かされたのである」(ヨハ1:18),また「イエスは彼に言われた.『ピリポ.こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに,あなたはわたしを知らなかったのですか.わたしを見た者は,父を見たのです』」(ヨハ14:9)と記している.第3に,キリストは忠実な大祭司としてふさわしいものとなるために,罪を除いて,すべての人間の経験を味わうために,人のかたちをとって来られた.ヘブル人への手紙の著者は,「あわれみ深い,忠実な大祭司となるため,主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした.それは民の罪のために,なだめがなされるためなのです.主は,ご自身が試みを受けて苦しまれたので,試みられている者たちを助けることがおできになるのです」(ヘブ2:17‐18)と言っている.第4に,受肉の目的は私たちにきよいキリスト者としての生活の模範を示すためであった.ヨハネは,「神のうちにとどまっていると言う者は,自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません」(Ⅰヨハ2:6)と言っている.また,ペテロも,「あなたがたが召されたのは,実にそのためです.キリストも,あなたがたのために苦しみを受け,その足跡に従うようにと,あなたがたに模範を残されました」(Ⅰペテ2:21)と記している.

この受肉は聖霊の超自然的な働きによってもたらされたと聖書は教えている(マタ1:18‐20,ルカ1:34‐35,ヘブ10:5).特に次の3点に注目することが重要である.第1に,マリヤの胎内に宿ったものの「能動因」は聖霊御自身であって,いっさいの人間的活動が排除されたということである.第2に,聖霊はマリヤの胎内に宿ったキリストの人間性を聖別し,それを罪のいっさいの影響と汚染から守られたという点である.これが使徒信条を初め,ニカイア・コンスタンチノポリス,カルケドン,アタナシオス信条の中に共通して告白されている「処女降誕」と呼ばれる教理である(詳しくはMachen, G., The Virgin Birth ofChrist, 1930を参照).第3に,処女降誕の事実は,人間は自らの救いのためには無力無能であるという事実と,「主はその民を顧みて,贖いをなし」(ルカ1:68)というマリヤの賛歌のうちに鮮やかに歌い上げられているように,救いにおける神の主権的活動,真に新しいことをなすのは神であるという事実を私たちに印象づけている(イザ59:15‐16,63:4‐5,エゼ34:5‐6,10‐16).神の御子の降誕に際して,御使いは「聖霊があなたの上に臨み,いと高き方の力があなたをおおいます.それゆえ,生まれる者は,聖なる者,神の子と呼ばれます」(ルカ1:35)と語りながら,聖霊の「現臨」と聖霊の「覆い」ということを印象づけているが,この事実は,創1:2を思い起させると共に,神による新創造の始まりを浮彫にしていると言える.